【洗いすぎ注意!土器洗い】発掘調査員日記⑧

素人発掘調査員が書く、発掘調査員日記 第8回は、発掘調査の中でも地味〜な作業である、土器洗いについての話です。これまでの記事はこちら

整理作業

発掘調査の仕事について順に書いてきましたが、これまでは現場で行う力仕事(掘り作業・埋め戻し等)がメインでした。アルバイト期間中、力仕事で終わりかと思いきや、そんなことはなく、現場が一旦終了すると黙々と地味な作業である【整理作業】が待っています。大きく分けると、現場で出土した遺物の整理、それから、現場で測量した遺構の記録整理です。素人(バイト)である、なんちゃって発掘調査員である私が今回挑戦したのは、前者、遺物の整理の部分です。

遺物の整理

遺物整理の手順は、土器洗い→土器への注記作業→復元・接合→出土場所・日付別に整理→出土品の実測→写真撮影→報告書作成。素人がさせてもらえるのは、出土場所・日付別に整理の部分まで。

遺構の記録整理

遺構の記録整理については職員さんが行うので、素人はノータッチですが、話を聞いたり隣で見る限り、測量されている姿を見たときもそう書きましたが、大変そうでした・・・!測量以上に大変そうでした・・・!(それは別記事に書く予定です)

土器洗い

では、この記事の本題である土器洗いについて、早速書いていきたいと思います。

溶けないように洗う

今回の発掘調査で出土した遺物は主に、弥生土器の破片でした。遺跡自体は古墳時代のお墓でしたが、古墳時代のものは出てこず、隣の弥生時代の遺跡から流れてきた弥生土器の破片ばかりが見つかりました。土器は、土に石や砂が混ぜられて作られており表面はざらっとしているのですが、私たちが今回発掘するまで、何世紀も土の中に埋まっていたので、土まみれの状態。その新しい土を綺麗に洗って落としていくことを土器洗いと言います。文字通りです。

作業を行うのは“山奥の秘密基地”。時には雪がしんしんと降ることもありました。

場所が場所なだけに、お湯が出ないので、ストーブに水をたっぷり入れたヤカンを乗せお湯を沸かします。その間に皆で諸々、セッティングします。

土器洗いに特別な道具はもちろんありません。まず、コンテナの中に水と沸かしたお湯でぬるま湯を作ります。土器は、写真にあるザルの中に入れ、そのザルをざぶんとコンテナの水に一度浸けます。長くつけてしまうと、土でできている弥生土器は溶けてしまうので要注意。水に浸けたらザルをあげて、コンテナの端に置いてある木の上に置いて水を切ります。

その後は、そうやって濡らした土器を、1つずつ丁寧にスポンジや竹串を使って、綺麗な状態にしていきます。スポンジで土器を擦りながら洗うのではなく、濡らしたスポンジで軽く叩きながら付着した土を落としていくイメージです。

中には、職員さんの勘で持ち帰った石(石器か何かかもしれない?)もありましたが、石はもちろん溶けることはないので、歯ブラシなんかを使って洗いました。「これ、何ですか?」ー「石です。面白そうだったので洗って見ようと思って。捨てないでください!」

洗うことで、増す“弥生土器感”

突然ですが、弥生土器というとどのようなものを思い浮かべますでしょうか?弥生土器は、縄文時代のコテコテな装飾の多い土器と比べると、とてもシンプルな作りです。しかし、シンプルでありながらも表面に模様はついており、当時の人々は貝殻なんかで模様をつけたそうです。

正直、発掘調査現場で土器を見つけて手にした時は、土器についた土で、表面の模様や質感は分かりづらく、ただの土の塊のようで、“弥生土器感”があまり感じられませんでした。しかし、1つ1つ綺麗に土を落としていくと、当時、弥生人が使っていた時の状態に近づき、ものによっては模様が浮き上がったり、土器を焼く際に付く煤が見えてきたり。ここでやっと実感が湧きました、「今、手に持ってるのは、確かに!!!弥生土器・・・!」

これが、その洗い終えた土器の破片たちなのですが、洗った後は水を含んでいる状態なので、写真の通り新聞紙の上で時間をかけて乾かしていきます。この後、出土したエリアごとに分けて紙袋に入れていくのですが、乾いてからでないと土器にカビが生えてしまうとのこと。焦らず乾くのを待ちます。


中には、いかにも土色という色もあれば、ピンクっぽい色の土器も

弥生土器と弥生人

稲作と弥生土器はセット

土器洗い中、考古学者である職員さんは弥生時代が専門だそうで、作業をしながら、素人でも分かるように弥生土器について色々説明してくださいました。中でも面白いなと思った話を。まずは、「稲作と弥生土器はセット」という話。

今や、遺跡から土器が発掘されると、土器が主役のように扱われますが、当時は土器の中に食べ物を入れて調理したり保存用に使ったりと、生活の中で使われていた道具の1つでした。主に、それぞれの形から甕、壺、鉢、高杯の4つに分類されるそうで、その弥生土器は、朝鮮半島から伝わった稲作文化と共にセットで北部九州から東北地方まで伝播したそうです。品種改良が行われていない時代に、短期間で(とはいっても200年とおっしゃっていたと思います)九州から東北まで稲作が伝わったことは、「世界的に見ても、すごいんですよ」ー「200年、それって短期間なんですか?」ー「そう思うかもしれませんが、短期間なんですよ」時間の間隔が職員さんと私たち素人では異なるようです・・・。

で、その弥生土器ですが、さまざまな種類がありそれぞれに型式名がついています。その1つに遠賀川というこの辺を流れる川の川床から見つかった、遠賀川式土器という土器があります。遠賀川式土器に似た土器は日本各地で見つかっており、最北端では青森で発見されたそうです。この遠賀川式土器の足跡を追っていくことは、セットで広まった稲作文化を辿っていくことになるそうです。

発掘調査に関わるまで、私の住む福岡の田舎である“この辺”は、なーんにもないところだなあと思っていたのですが、土器洗いをしながら皆で「それって結構すごいことよね」「時代の最先端行っとったんやん!」と盛り上がりました。皆、“この辺”出身なので2000年前の話とはいえ、他人事とは思えません。

弥生人の描く絵は・・・

もう1つ、へえ〜!と思った話を。

土器洗いをしている時に、1人が「これは絵やろうか!?」と、弥生土器ではない、現場から持ち帰った石を見ながらそう言いました。石の表面の模様が絵のように見えたそうです。

その後話は進み、弥生時代の人たちは絵を描くことはあっても奥行きのあるような絵は描くことができなかった、という話を、職員さんがされていました。弥生土器はもちろん縄文時代の派手な土器や、今回発掘した横穴墓を作り出すことはできても、今のような遠近法を使った絵を描くことはなかったそうです。

最後にちょっと独り言です

発掘調査から話は逸れますが、この話を聞いた後、個人的に人間はいつから絵を描くようになったのか、昔の人々はどのような絵を描いていたのかと、ずっと気になっていたのですが、最近たまたま図書館で見つけた本▶︎ 洞窟壁画を旅して ヒトの絵画の四万年が、その疑問を解決してくれました。

著者は、美術評論家であり解剖学者である布施英利さん。(弥生時代より遥か昔になりますが、)クロマニヨン人が残した洞窟壁画を見にある夏フランスへ旅した時の話と、著者の絵画に対する「ヒトはなぜ絵を描くのか」という本質的な考察が交互に書かれており、知識のない私でも読みやすい本でした。直接的には今回の弥生土器とは関係ないかもしれませんが、人間の進化や文化の成り立ちに浅く広く興味のある私にとっては、引き込まれる1冊でした。

発掘調査にしても、この本にしても、歴史を遡るときの職員さんや著者の目線の先は、10年前、100年前とかではなく、千〜万年単位。職員さんが、「200年で稲作が全国に広まったのはすごいことだ」「江戸時代は最近」このようなことをおっしゃっていて、初めは皆戸惑っていました。しかし、発掘調査で感覚が磨かれたのか(笑)、終わり頃には「江戸時代の瓦か、新しいね〜」「明治時代?ついこの前の話ですね」そんなふうに皆で会話していました。

さてさて、この発掘調査員日記も次回が最後となりました。次は注記作業や復元、接合の話についてです。最後とは言いましたが、番外編ということで、発掘調査期間中に見せてもらった埋蔵文化財の話や、遺構の記録や遺物の実測作業についても書こうと思っています。

それでは、また!

 


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