今働いている小屋では2連休、長くても3連休しか取れないが、他のスタッフの休みの都合上、4連休が私に降ってきた。なかなかない機会なので、シーズン中にいつか行きたいと思っていた大天井岳へ行くことにした。1泊2日で行くことも可能だが、私の訛った身体と、治ったのか治っていないのかわからない膝で歩くには、2泊もしくは3泊した方が無難だ。
6連勤を終えた翌朝、私はもう少し寝たいという気持ちよりも、今日の長旅への不安の方が大きく、二度寝することを早い段階で諦め、厨房へ向かう。朝が早い支配人の隣で朝ごはんを食べ、持っていくご飯の準備と最終の荷造りをしながら、身体を起こす。
外は、思っていたよりまだまだ暗い。5時には出ようかと思っていたが、ヘッドランプをつけてクマを気にしながら歩きたくはなかったので、明るくなってから、5時半、小屋を後にする。
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いつものように順を追って写真とともに山の様子を書いてもいいのだが、今回は山行の中での気づきと、思ったことがいくつかあるので、それを主に書きたいと思う。
まず一つ目は、歩くベース。3年前にここで働いていた時は、1人で山に行くと毎回こう思っていた。「歩くペースを掴むのが難しい」誰かと歩けば、その人に合わせてみたり、その人のためにペースを作ってみたり、もしくは置いて行かれてトボトボと歩いてみたり。あまりペースのことを考えたりはしない。しかし1人だと、自分の心地よいペースが分からず、焦ってしまったりだらけてしまったり、その日その時でまちまち、疲れてしまうことが多かった。しかし、今回の山行は、コースタイムを気にせず歩こうと思っていたからか、自分の歩く速さに対して迷いがなかった。あの時は、ペースについて散々悩んでいたのに、、、。3年前は歩く速さが山歩きのなかでも大きなテーマの一つだった気がするが、今やそんなことがどうでもよくなっている自分。この発見は自分の中で結構大きな気づきだった。
次に、クロマメノキ。ちょうど食べ頃。大天井岳の周辺の実はなんだか、偏見だろうか、甘い気がする。パクパクと甘酸っぱいクロマメノキをいただいた。
そらから、登山道について。今回通った道は、3年前に友人と歩いた道だった。その時は1箇所ザレ場でトラバースする箇所があり、あの場所を歩くのは嫌だなぁと思っていた。しかし今回歩いてみて、それ以外にもヒヤリとする場所がたくさんあり、もう2度と歩きたくないと思うほど。友達と歩いていたから怖いと感じなかったのだろうか。道が年々悪くなっているのだろうか。記憶がぶっ飛んでいるのだろうか。もう一度稜線の小屋で働いてみてもいいかなぁと最近思い始め、今回の山行は、私の中で偵察でもあったのだが、この道を上山、下山で歩くのは勘弁してくれと思った。もう歩きたくない。雨の日、風の日は集中力が切れてしまえばいつ痩せてしまった尾根から落ちてしまってもおかしくない。高所は元々苦手な私だが、久しぶりの北アルプス山行でもあったので、以前にもまして怖さをひしひしと感じた。
4つ目に、稜線に出た時の雲の流れと風の音。そして空気。とても懐かしくて、たまらない。これは森の中では感じることができない。雲は見上げるものだし、触れるものでもない。けれど、稜線に上がると雲は見下ろすこともでき、触ることもできる。森の中にいると、もちろん木を見上げたり、植物を愛でて、森林浴を楽しむことができるが、それ以上に雲の流れには魅了される。スマホをいじったり、無駄な広告や投稿をスクロールしている暇は1秒たりともないと、本能的に感じる。音楽を聴きながら、もしくは無音で、目の前の目まぐるしく形を変えていく雲に取り憑かれてしまう。この感覚が、懐かしかった。またここに住みたいとさえ思う。ただ、3つ目に書いたように登山道の状況だけが私の足を引っ張る。
雲や風、空気は懐かしいが、それ以外のことはあまり懐かしさを感じなかったのも今回の気づき。5年前に大天井岳の小屋で働いていたことが、完全に私の中で過去の出来事になってしまったようだ。寂しいようで、でも、自分が前に進んでいると分かり、それはそれで良いと思える自分もいる。3年前に遊びに来た時は山小屋という建物に懐かしさを感じたり、あれよこれよと頭の中で山小屋での生活を思い返していた気がするが、今回はあまり感じなかった。(もちろんゼロではない。)それだけ、私にとって大気の動きは鮮明に記憶に残るような印象的なものであり、山小屋での生活や、建物、仕事は、消化しやすく過去の出来事として忘れていくものなのかもしれない。
そういえば、月の光は印象に残るものの一つかもしれない。今回宿泊した日は満月だった。夜遅くまでスタッフの方とおしゃべりしたが、満月のお陰で、ランプに灯る火の光と窓から入ってくる月の光で十分だった。太陽の光を浴びるのは精神的にも良いとよく言われるが、私は月の光こそ身体に必要不可欠なものだと思っている。しかし今いる森の中や街での暮らしでは、月の光だけを浴びることってなかなかない。月を見ることはあっても電灯が周りにあったり、森の中だと少し歩かなければ月を見ることができず、わざわざ外に出ることはしない。そして月が遠い。しかし、大天井岳にいると月にも手が届きそうで、光を存分に浴びることができる。あぁ、ありがたい。こういう瞬間に、やっぱり稜線の山小屋に戻りたいなと思ってしまう。だれか、道直しをしてくれないだろうか。
他にも細かな気づきはあったかと思うが、印象的なことは、以上。
あとは、スマホとカメラで撮った写真を載せておきたいと思う。写真だけでは伝えられない高山の良さがある。文章にするのは難しく、なんなら言葉にするのがもったいないくらい今の私にプラスに働き、身体も心もリセットされた。
▲出発してから2、3時間。心地よく流れる沢沿いを歩く。自然に感謝の気持ちしか湧いてこない、静かで心安らぐ登山道
▲稜線に出てからは険しい痩せた尾根を歩く
▲あんなところに道が果たしてあるのかと、目の前の岩の塊を見て思う。中に入っていくと、伸びるハシゴが、私たちを岩の向こうへ連れて行ってくれる
▲沢の水は水蒸気となり上空へ風と共に舞い上がり、様々な形の雲を大気中で作り上げる
▲ハイマツが生い茂る足元に目をやると、落ちた葉が地面を覆っている。心なしか、触ってみると少しあたたかい。ハイマツの葉は枯れるとオレンジ色、灰色になるらしい
▲西日の日差しが強くなるころ、運良くこの現象にで会うことができた
▲日差しは柔らかくなり、静かに1日を終えていく
▲一方で、雲の中を一歩一歩歩いてくる登山客もいる
▲反対側には、山々が重なり川が見える。私の住んでいる小屋はあっち方面だ
▲さっきまで見えていた川は雲の下へ(一つ前の写真と同じ方向の写真だが、全く別の場所に見える)
▲この瞬間は、全てが報われる気がする
▲日付は変わって翌朝、4時45分からの食事の時間、外では朝が始まる
▲朝、上がったばかりの太陽に照らされる雲たち
▲薄明光線
▲太陽が上がって行く空よりもドラマチックな気がする月が沈む方向
▲秋の晴れ空に映える槍穂高
▲先輩が持たせてくれた、私の好きなミニトマト
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